日本刀と精神を関連付ける論考は多くみられますが、この時に出てくる刀というのは、まさに武士にとっては自分自身の写し身であり、その刀を磨くことで、自分自身を磨き、その刀を振ることで、自分自身を鍛えるという相互的関係にあったことは、よく言われているようですし、これは現代において真剣ではない模造刀を使ったとしても全く同じことが言えるでしょう。模造刀であっても、剣を構えるということは、それだけで覚悟が要ることなのだ、ということを、よくよく理解しておく必要があるでしょうし、何よりも、このようなバックボーンを知らずして武士道や居合道の道に入ってしまうことには、おおきな成長はのぞめないといえるのではないでしょうか?ただ剣を振るのではなく、その鍛錬を行うことで再帰的に自分自身にどのようにしてそのことが返ってくるのかということを、よくよく考えながら鍛錬を積んでいくことが重要です。日本刀を購入したり、模造刀を購入して鑑賞するのも刀の業界の経済を潤す上では重要なことともいえるかもしれませんが、日本刀の本来の役割から言えば、それをもちいてしっかりと鍛錬をして、心と心で向き合うことが重要になってきていると言えるでしょう。昨今、インターネットやそれに関するメディアの発達などによって、直接人と人とのつながりを介すことをしなくても情報が得られるようになってきた現代においては、実際、褒め言葉としての「侍・サムライ」は残っていたとしても、それに心を移すことができる侍はほとんどいないと言えるでしょう。これは、現在、居合道を習っている人にも同じことが言えます。侍という職業がなくなったいま、今一度用語について精査する必要があるのです。

 

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